飢餓体験が変えた、戦国武将の築城術と食生活の歴史

高度経済成長期以降、豊か過ぎる食生活を送るようになった現代の日本人は、飢餓という概念自体、感覚として判らなくなっています。
歴史的には、多くの日本人が飢餓に苦しんだ期間を体験している時代が少なくなかっただけに、現代日本に生まれ合わせたことは、それだけで幸運と言えます。

 

【豊かな穀倉地帯をめぐる両雄激突】

室町時代後期、世界的に小氷河期とも言える寒冷期となったことで不作の地域が増え、豊かな農地をめぐる争いが各地で勃発したことで、戦国時代に突入したという説があります。
人々の飢餓への恐れが戦乱の歴史を作ったとも言えます。
代表的な戦の一つ、武田信玄と上杉謙信が数年に渡って何度も対陣した川中島の戦いも、要は北信濃有数の穀倉地帯である善光寺平の支配権を争うものでした。
戦国時代きっての名将と謳われる二人の領地だった地域は、川中島のある善光寺平一帯を含め、食生活が変わった現代においても、実り豊かな農地が広がり、米どころやフルーツ王国などと讃えられているのも、長い歴史から見れば自然なこととも考えられます。

【飢餓を武器に使った戦国武将】

現代のように冷凍冷蔵技術が発達していない時代、長期保存できる食品は主食の米穀のほかは、乾物や梅干しなどの塩漬け食品以外、あまり多くありませんでした。
そのため、敵国に攻められ籠城となった場合、備蓄の米だけが頼りとなりました。
それを逆手にとって有利に城攻めを行った武将が豊臣秀吉です。
特に、悲惨な飢餓状態に陥って落城した鳥取城の場合、事前に城の備蓄米を商人らに高値で買い取らせ、激減させた上で城攻めを開始しました。
織田信長に仕え頭角を現す以前は極貧の身分で、慢性的な飢えの恐ろしさを身をもって知っていた秀吉ならではの、飢餓を武器にした戦術という見方もできます。